翻訳発表

 この小説は、毎週土曜日午前の「小説を楽しもう!」クラス(2014年4月~6月)で講読し、授業で翻訳したものを講師が訳文を整えまとめたものです。この度、著者の龍一さんから特別に翻訳許諾を頂戴し、学院のホームページに発表できることになりました。一九二〇年代の天津租界から始まり、激動の時代を背景に愛を貫こうとした美しいモダンガールの生涯を活劇風に描いたこの小説を、たっぷりとお楽しみ下さい。
(原文は文芸誌《人民文学》2013年11期所収)

【作者紹介】
龍一:1961年、天津生まれの人気作家。中国作家協会会員。長年にわたり、中国古代生活史や近代都市史、中国革命史を研究し、その博識をベースに抗日戦争の時代を背景にしたスパイものなど、スリルと迫力のエンターテイメント小説を数多く発表し、映像化された作品も多い。ご本人によれば、日本の小説が好きで、多くの示唆を得たという。

*担当講師:樋口裕子 
*受 講 者:大谷恵吾、小林利江、紺野史子、三枝博、中村友彦、山下章の各同学

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モダンガール・エレジー(原題:新女性的挽歌)  作者:龍 一
【第8章】

 昼になったが、程君石(チョン・ジュンシー)はまだ帰ってこない。玉婕はどうしてよいやら思い悩んでいた。天津から脱出してこそ、彼女はやっと過去を捨てられ、新しい人生を踏み出せるのだ。今日という日を逃せば、この脱出劇をほぼ完ぺきにやれる能力がまだ自分に残るかどうか分からなかった。
 程夫人が空腹だと言うので、玉婕はハトの煮込みを半分取り分け醤油につけて食べさせ、自分はスープにトウモロコシ饅頭を入れて食べた。また、程夫人の荷物は乱雑だったので、玉婕(ユイジエ)は役に立たない物を全部捨て、皮のトランク一つにまとめた。三人でトランク三個、あまりにも目立ちすぎる。困ったものだと玉婕は思ったが、それよりもっと気がもめるのは君石のことである。日本人は君石を宝物のようにあつかっているが、やっとオオカミの巣窟から出たと思いきや今度は虎口に入りこんだに等しい。
 小丁(シャオディン)はスコットランド人の恋人を連れて真っ昼間にやってきた。手には巨大な柳行李をぶら下げている。今ここで文句を言ったところで、もう意味もないので、玉婕は二人を自分の部屋にかくまって小丁に言った。「郝大為(ハオ・ダーウェイ)の話では、あなたの彼の切符に印を付けたから、検札ですぐ捕まると言うのよ。」
 小丁は泣き叫んだ。「じゃ、どうすればいいの。助けて頂戴よ!」
 そう言われると思っていたが、彼女にも打つ手はないのだ。スコットランド人は「敵国人」なのだから、いつどこででも逮捕される可能性がある。情に負けて、君石の切符と取り換えるわけにはいかないのだった。そして、彼女は言った。「生きるも死ぬも運命と思うしかないわ。やっぱり彼をパレスホテルに送り返せば?」
 スコットランド人は泣きわめく小丁を抱きしめ、「お金をありがとう。二人で相談しなおすことにするよ。」と玉婕に言った。そののち、一九四五年五月、スコットランド人「渤海の漁師」は山東省濰(い)県の収容所で病死した。
 すでに午後二時を回ったのに、君石はまだ帰ってこない。玉婕は老安(ラオアン)を呼んで言い付けた。「奥様を連れ、荷物と一緒に先に出発し、北倉駅で私たちを待ってて。いいわね、私が車を降りて迎えに来たのを確認したら、そのときに奥様を汽車に乗せるのよ。」
 老安はうなずいた。玉婕は二等車の切符を一枚、程夫人に渡して言った。「もし北倉駅で私たちに会えなければ、かならず老安と一緒に家に戻ってください。」
 程夫人は切符をハンドバッグにしまいながら、さらりと尋ねた。「そのとき、あなた方が家にいなかったら?」
 程夫人の疑いの言葉に、玉婕は侮辱を感じた。だが、また翻って考えると、もし彼女が程夫人の立場なら、そんな疑念が湧いたかもしれないのだ。それが元愛人の悲哀というものである。そして、玉婕は程夫人の問いには答えず、何日も労してかき集めた旅費と生活費を取り出し、夫人に渡して言った。「日本人にねばられて、君石は抜け出してこられないかもしれません。とりあえず、お金を持っていてください。北倉駅で落ち合って一緒に行きましょう。もし私たちの姿がなければ、君石が捕らえられたということです。」
 程夫人は聞いた。「私たち、天津に留まっていたらどうなるかしら?」
「もし逃げなければ、程君石は漢奸にならざるを得ません。」玉婕はきっぱり言い放った。
 雪が降ってきた。塩粒のような雪花が程夫人のラッコ皮のコートの襟に舞い落ちては、またたく間に溶けていく。間借り人の女房も門まで送りに出てきて聞いた。「奥様、いったいどこへ行きなさるんで?」
 程夫人は微笑んで言った。「両親がアメリカから帰ってきましたのよ。」
 玉婕は程夫人に手を振り、人力車の後ろを懸命に追い駆けていく老安を見送りながら、急に心が騒ぎ出すのだった。天の神様、仏様、此方彼方におわします神々様、どうか決してあのときのトニーのように、うまく仕組んだと思ったのに予期せぬ仕打ちに遭うことがないようにお守りください。十二年の苦労続きの生活で、玉婕は考え方も言葉もすっかり俗っぽくなって、もはやお洒落な「モダンガール」ではなくなり、それどころか、間借り人の女房のような「おかみさん」になっていた。
 汽車は天津北駅から北倉駅まではおよそ十五分である。玉婕はずっと程君石の手を取ったまま、おし黙っていた。何を言っていいのやら本当に分からなかったからだ。
 午後、程夫人を見送ってから、彼女は近所の煙草屋に言って自動車会社に電話をし、タクシーを呼んで家から遠くない場所に待たせておいた。程君石が帰宅したときはすでに五時を回っており、汽車の出る時刻まで一時間もなかった。そこで、島村賢治の車が去っていくと、玉婕は片手にコートを抱え、もう片手で君石の手を引き、急いでタクシーに飛び乗った。「家内はどこだい?」と聞く君石に、「私を信じて頂戴。手はずは調っているの」と玉婕は答えた。
 タクシーは木炭を燃やして走る自動車なので、運転手のほかにもう一人、炉の係が必要だった。フランス橋を通り過ぎたころ、自動車が停止し、係が下りてきて炉の灰をかき出して木炭をくべる。玉婕は幻のような雪景色を通して、すぐ近くの天津駅を見ながら、いっそ君石を連れてまっすぐ走っていきたいという衝動に何度駆られたことだろう。しかし、そこは始発駅であり、もし日本人が君石の逃亡を阻止しようとするなら、最重点の検問はまさにここだ。一方、天津北駅は小さな駅で、停車時間は一分間しかない。郝大為は駅の派出所から二人をホームに送りだしてくれたので、改札を通ることはなく、二回目の危険は回避できたのであった。
 君石の手はやせ細り、皮膚はどす黒く、玉婕の手に握られて、まるで窯で焼かれた炭のようである。彼女は彼の肩に頭をもたせかけ、軽く目を閉じた。十二年間離ればなれの頃、こういう光景をいくど夢に見ただろうか。二人が愛し合い、何も思い煩うことなく、何の気兼ねもなく、遠くに旅立ってゆくことを。
 検札係がやって来て玉婕に言った。「奥さん、ここは二等車ですよ。車両を間違えていらっしゃいます。」
 汽車が北倉駅に着くと、君石をその場に置いたまま、自分はさっさとドアの前で待った。ホームにいる程夫人と老安の姿が見えると、全身が思わずブルブルと震えた。ついに、脱出を成功させることができるのだ。程夫人と荷物が汽車に乗り、「お見送りの方は下りてください」と大声で言いながら、車掌はドアの鍵をかけた。発車のベルが鳴り出し、駅長が緑の信号灯を左右に振る。ガタンと音がして、機関車が客車の連結器を引っ張り、巨大な金属の衝撃音が発せられた。
 このとき、君石はドアのところに突進して、あちこち手探りしながらドアを開けようとし、同時に手を振りながら外に向かって大声で叫んだ。玉婕には彼の叫び声は聞こえなかったが、彼が何を言わんとしているのかは分かっていた。汽車が動き出し、君石は斜めに向けた顔をガラス窓に張りつけ、目は風雪の中にいる彼女を追いつつ、手は虚しくドアを叩いている。北倉駅でとっさに決めた別れだったが、その実、玉婕が十二年間耐え忍んだからこその決断だった。彼女は笑顔で君石に向かって手を振り、声を殺して別れを告げた。「来世でまた会いましょう。」
 その後、玉婕は程君石からの短い手紙を受け取ったが、二人は無事に到着したと書かれていた。重慶の郵便物検査は非常にきびしく、長くは書けないのだった。そして、天津が解放されると、重慶からやって来た接収担当の人の話では、程君石は国防部に職を得たと聞いた。彼は特派要員として、たびたび飛行機に乗って次から次へと危険な山を越え、インドやアメリカ、イギリスに赴き中国を支援する飛行機の製造と輸送を監督する役目を担った。ヨーロッパ戦役の収束後、彼はまたドイツとイタリアに飛び、廃棄処分で安く売りに出された戦闘機を買い入れ、中国に輸送した。そういう消息を耳にして、玉婕はとても嬉しく思った。
 玉婕は恋愛もせず、結婚もしないまま、急進的な思想を持った小丁と一緒に暮らし、小丁の組織に加入して、正式に仕事に就いた。程君石との恋愛は不完全な愛ではあったが、玉婕自身の手でそのほころびを繕い円満に終わらせたことで、彼女なりに喜びを感じる理由があるのだった。
 一九四八年九月、程夫人は香港で亡くなり、その年末、鄭玉婕は香港に行って君石と再会した。一九六九年十一月九日、程君石は香港島赤柱(スタンレー)東頭湾道九十九号にある赤柱監獄で世を去った。享年75歳。刑期未了であった。彼の投獄は、中国大陸に向けて飛行機のエンジンなどの戦略物資を密輸したという罪名によるものであり、禁固十九年の刑に処され、全ての財産を没収された。一九七〇年二月五日、陰暦の己酉(きゆう)年の大晦日、六十五歳の鄭玉婕は、程君石の遺灰を抱いて、海に身を躍らせた。
(完)