翻訳発表

 この小説は、毎週土曜日午前の「小説を楽しもう!」クラス(2014年4月~6月)で講読し、授業で翻訳したものを講師が訳文を整えまとめたものです。この度、著者の龍一さんから特別に翻訳許諾を頂戴し、学院のホームページに発表できることになりました。一九二〇年代の天津租界から始まり、激動の時代を背景に愛を貫こうとした美しいモダンガールの生涯を活劇風に描いたこの小説を、たっぷりとお楽しみ下さい。
(原文は文芸誌《人民文学》2013年11期所収)

【作者紹介】
龍一:1961年、天津生まれの人気作家。中国作家協会会員。長年にわたり、中国古代生活史や近代都市史、中国革命史を研究し、その博識をベースに抗日戦争の時代を背景にしたスパイものなど、スリルと迫力のエンターテイメント小説を数多く発表し、映像化された作品も多い。ご本人によれば、日本の小説が好きで、多くの示唆を得たという。

*担当講師:樋口裕子 
*受 講 者:大谷恵吾、小林利江、紺野史子、三枝博、中村友彦、山下章の各同学

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モダンガール・エレジー(原題:新女性的挽歌)  作者:龍 一
【第4章-1】

 ラビノビッチのところから一万九千元の小切手を受け取り、自動車販売会社に車を売って3千元手に入れ、弁護士事務所に行って二万一千元渡すと、玉婕(ユイジエ)の手元には一千元しか残らなかった。だが、彼女の銀行口座にはまだ6百元あまりの預金があったので、合わせればかなりの額になる。それだけあれば租界の旧市街にあるアパートにトイレなしの小部屋を借りるには十分で、そういう所では自炊の必要があるので、共用の台所はしつらえてある。
 人力車はドイツ病院の前で停まったが、前もって車代がいくらかかるか聞かなかったことに玉婕はやっと気づいた。彼女はやむなく人力車の踏み台に五角の銀貨を置くしかなかった。わざわざ大金をはずんだのである。車夫と路上で言い争いになっては面目をつぶすことになるからだが、今後は当然、自分で節約に心がけねばならない。
 程君石(チョン・ジュンシー)の本妻はこの病院に入院している。夫妻は結婚十五年になるが、たいへん仲むつまじいということだ。この本妻に対しては、玉婕の胸のうちはやましさと好奇心でいっぱいだった。そのため、君石と分かれる前に、その人にどうしてもひと目会っておきたかったのだ。
「女子青年会(YWCA)の者ですが、神の福音を携えてまいりました。」と玉婕がでまかせを言ったのもやむなきことで、彼女の実際の身分は彼女自身にとっても、また程夫人にとっても最大の恥辱なのだ。召使いがイスを引いて彼女に腰掛けるよう勧めた。彼女はドレスの下で足を縮こめ、緑色の靴をはいてきたことを後悔するのだった。
 程夫人は驚くほど美しい人だった。顔には薄く白粉をはたいただけで口紅はつけておらず、冴えた眼差しではあるが、病院のたっぷりと大きめのパジャマを着た身体は子どものように小さくて華奢だった。程夫人が天津では名高い美女の一人であることを玉婕はとっくに知っていた。
「お洋服はご自分で選んだのでしょ?」程夫人は玉婕をしばらく観察してから、開口一番、なまりのない英語で話しかけた。
「お恥ずかしゅうございます。」英語で会話すれば召使いや看護婦に聞かれないですむ。玉婕は配慮して応じた。
 程夫人はふっと笑ったが、その瞬間、少しばかり面やつれが見えた。
「どうやら、あなたはご自分の主張がおありのようね。すぐに分かったわ。あなたの髪型、口紅、靴、バッグ、爪の整え方、それに表情まで、すべて君石の好みどおり。ただドレスだけがあなた自身のものだと。」
 玉婕は一瞬、言葉に詰まった。相手は一目で彼女のことを見抜いていたのだ。
「あなたはきっと君石が今お付き合いしている人よね?」程夫人は尋ねた。
「はい。」玉婕には恥ずかしさを感じる余裕もなかった。
「私がいつ死ぬか探りにいらしたの?」程夫人は唇の端にからかうような色を浮かべた。
「いいえ、御礼を申し上げに参りました。」
「お詫びでなくて?」
「ええ、御礼です。私たちの仲を裂かないでくださって。」
 しかし、夫人のそういう寛容さに感謝の念を持つべきなのかどうか、玉婕は自分でもよく分からなかった。
「感謝なんて余計なこと。情の深すぎるのは女の致命的な欠陥よ。君石の愛人はどの人も別れる前に私に会いに来たがるけど、何をしたいんだかさっぱり分からないわ。それで、あなたはいつ彼と別れるつもり?」
 玉婕は返す言葉がなかった。そうよね、私は今日ほんとうに彼と別れられるのかしら。
 程夫人は続けて言った。「君石は惚れっぽい人だけど、好みがうるさいのよ。ありふれた女じゃ、とても彼のおめがねに適わない。」
「私は光栄に思うべきなのでしょうか?」玉婕はできるだけプライドを保つよう試みた。
 程夫人は気分が高揚してきた様子で、両手を組んだが、腕に見える透明な翡翠のブレスレットは、明らかに玉婕のものと同じ石から作られたものである。夫人は言った。「もし私があなたなら、とても幸運に思うわ。神様はほんとに不公平。私をこんなにひ弱な身体にお造りになるなんて。お陰で私は不幸なの。」彼女の表情はその言葉ほど感情的ではなかった。「あなたのことはずいぶん前から知ってたわ。君石が一番熱を上げている人だって。あの人、自分から私に言ったのよ。前世であなたに大きな愛情の借りがあるので、この世でもとても返しきれないだろうと。それを聞いて、私はひどく不安になった。彼があなたを大事にしすぎて逃げられるかもしれないって。女って、いちずに愛されると必ず逃げ出したくなるものよ。」
 玉婕は無言のままである。
「私は身体が弱すぎるので、君石はバスケットボールの選手を妻にすることを夢にまで見ていたわ。あなたはスポーツ選手なの?」夫人の大きな目に今度は無邪気な色が浮かんだ。
 程夫人がこれほど冷静に自分の夫の愛人について語るとは、玉婕の人生経験の範囲を遙かに超えるものだった。だが、このとき彼女は最初の取り乱した状態から抜け出していた。このやり取りは一人の夫に仕える二人の女の会話にすぎず、別に大したことでもない。そう思って彼女は答えた。「私はバスケットボールの選手で、学校対抗試合にも出場しました。」彼女は自分の眼差しが程夫人と同様に無邪気であるように努めた。
 程夫人は汗で前髪をぬらし、ため息をついて言った。「私、ずっと考えているのよ。もしあなたが彼と別れなければ、どうなるのかしらってね。あなた、別に恋人がいるんでしょうね?」
「いいえ、ただ、今のような生活が恥ずかしく思えて。」
「でも、まだ最後の決心がついてない、そうでしょ?」夫人は人並み外れて察しがよかった。
「私の心の中では二つの声が言い争っていて、どちらも他方を説得することができません。」彼女は無意識に真実の苦悩を口に出してしまった。目の前のこの夫人は、たしかに初めて会ったのに心を許してしまえるそんな女性だった。
「もし自分を説得できないなら、今のままでやり過ごすことね。私は何も言うつもりはないし、他人はなおさら余計な口出しをする資格もないでしょ。あなたとの婚姻証明を取り、にぎにぎしく披露宴を催すように、あとで君石に言っておくわ。国民政府はあまり開けてはいないけれど、印紙税をたっぷり納めさえすれば、第何夫人だろうと結婚証明書は出すはず。女性を保護するということよ。モダンガールって、捨てたものじゃないわね。」程夫人は疲労を覚え、まつげが汗でぬれている。
 玉婕のうなじにも汗が伝わり流れた。あまりにも蒸し暑い陽気である。
 程夫人は続けて言った。「私の両親はわりと裕福だったので、持参金はかなりくれたけれど今まで手つかずに残してあるの。だから、私が別途お金を出してあなたの家族の面倒を見るから、つまらない考えはおよしなさいな。彼と別れるなんて事はなかったことにすれば、私も君石に話したりしないわ。」
「ずいぶん鷹揚でいらっしゃるんですね。でも、私はもう……」玉婕は立ち上がって逃げようとしたが、程夫人の好意はあたかも強力な城攻め部隊のごとく、とても逃げられない状況に彼女を追い込んでいた。
「心配なさるのもごもっともね。彼はおそらく正式にはあなたと結婚できないでしょう。私たち両方ともローマカトリックの信者ですから。ただ、あの人はきっといい暮らしをさせてくれるはず。君石は女の人には、とにかく気前がよくてお金を惜しまないのよ。」だるそうな程夫人は今にも夢の中に入ってしまいそうである。
 玉婕は入り口までさがり、ドアを開けようとした。すると程夫人が突然、彼女の背後で寝言のように問いを発した。「彼を満足させられるのは、あなたのようなスポーツ選手だけだわね。あの人はベッドでは荒れ狂う男になるの。彼の身体にはまだそういう激しさがあるかしら?」
 玉婕は答えず、逃げるようにその場を去った。夫人の最後のひと言は彼女の痛いところを突いたのだった。
 今回の訪問の結果にはひどく失望したけれど、それでも彼女は元気を奮い立たせ、これから直面する全てに対処しなければならないのだ。というのも、彼女が以前教わった演劇科の教授、トニー・ガブリンが今しも君石を政治の舞台に引きずり出して蹂躙しようとしており、おそらくここ数日のうちに判決が出されようとしていたからだ。彼女はどうしてもその判決の前に、君石の厄介事を徹底的に解決しておかねばならなかった。それは単に自らの愛人を救うためだけではなく、より重要なのは自分自身を買い戻すということだった。たとえ彼女がその件に介入することを君石が賛成しなくても関係なかった。モダンガールは勇敢さをもって積極的に関わり社会と家庭における権利を勝ち取るのだ、と彼女はスローガンを諳んじるのだった。