4年ぶりに本科・日本語科合宿に行きました

合宿

日中学院校友会主催日中国交正常化50周年記念講演会
『撫順の奇蹟―親子二代にわたる元戦犯との交流を通して—』②

講師:金勝光氏

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【撫順戦犯管理所でのこと】
 撫順戦犯管理所のオフィスビルには、私は幼いころよく遊びに行きました。この建物は地下1.5階、地上2.5階建て
の建物で、建物としては小さいのですが、後ろからの通路はすべてこの管理所の監房につながり、迷路のようで歩いていくと1、2時間かかると思います。私は何回も入ったことがあります。
 写真は1957年ごろの写真ですが、当時の戦犯管理所の職員の集合写真です。最前列の白いシャツ姿の方は公安所長で、その右隣は映画に登場した所長の孫明斉さん、その右隣は父です。その時父は副所長でした。最後列の一番右は母です。母も管理所の仕事をしており、経理を担当していました。
1950年7月20日969名の日本人戦犯は、ソ連から貨物列車に乗せられ黒龍江省の綏芬河駅に着き、中国側に引き渡されたあと一般の客車に乗り換え、翌日の21日に撫順戦犯管理所に着きました。それから、ほとんどの人は6年間、ここで教育、改造が行なわれました。また、その年の8月には溥儀と弟の溥傑、「満州国」の大臣など合計61名、ソ連から引き渡され撫順戦犯管理所に入所しました。
 日本が降伏後、実際は日本人に対する怒りや憎しみが強かったのですが、中国の国内は共産党と国民党の内戦が始まり、そのころは日本人に対する感情をぶつける余裕がありませんでした。1949年に新中国が誕生し、一気に中国人の日本人に対する感情が噴出しました。管理所の職員は日本人への憎しみがとても強く、日本人戦犯に対して顔の表情からもそれがはっきり表れており、あまり会話をしたくないとか、仕事をしたくないとかという気持が強かったです。日本人戦犯は恐怖心や不安な気持ちが強く顔もこわばっており、両者の立場が大変難しい状況になっていました。戦犯管理所の上層部の人たちは、このような状況を見て、これでは仕事ができないと思い、職員たちの勉強会を始めました。その時に周恩来総理の指示を受け、管理所内でこの1,000名弱の戦犯の人たちに将来どのような役割をさせるのか、その役割を担うためにきちんと教育をしなければいけない、殺人を犯した人間が一般の良識を持った人間の心を取り戻すには、どうしたらいいかということを戦犯管理所の職員たちに投げかけました。まず自分の家族や個人的な憎しみや恨みを置いといて、この戦犯は将来中国と日本の友好関係を築き、二度と戦争をしないような役割を担わないと、我々の仕事は意味がないということで、職員の意識を統一させることによって気持ちを落ち着かせ仕事をするようになりました。
 職員にはお医者さん、看護師さん、炊事担当、教育担当者など、様々な立場の職員がいましたが、それ以来彼らの態度が変わって、食事もかなり改善され、お風呂の温度も40度ぐらいに調整し戦犯が快適に入れるようにし、環境を整えていきました。そのような日常生活の中で日本人戦犯はだんだん恐怖心が薄らぎ、気持ちも落ち着いてきました。
ある日、かつて「満州国」の国務院総務長官を務めていた武部六蔵が頭が痛くなり、職員が病院に連れて行ったのですが、病院に着いた時武部が倒れ、エレベーターがなかなか来ず、その時、温久達医師が1階から3階まで背負って診察室に入りました。武部は脳出血で半身不随になりましたが、命は助かりました。その病院で治療を受け、リハビリを受けたりして、看護師さんの献身的な治療で、少しずつ良くなっていきました。武部の刑は20年の判決を受けたのですが、体がよくないということで早めに日本に帰国しました。武部自身、このことに心を打たれ、多くの人がそれを聞いて感動しました。
 また、ある日、戦犯の中に視力が減退し手足がしびれ、ひどい人は歩けなくなるという病気が発生しました。戦犯管理所の医師たちもその時はどういう病気かわからなかったので、政府に報告し、北京から医療チームが派遣され、診察したら神経末梢炎だとわかりました。原因としてシベリアで5年間の過酷な抑留生活で体がかなり衰弱し、この病気になったと考えられます。薬を処方し大体1か月ぐらいで病気が治りました。
 当時、日本軍の中では梅毒に感染した人が多く、長い戦争の中で慰安婦と関わり病気になったのにもかかわらず、知られるのが恥ずかしくて口に出せなかったのですが、健康診断でわかってしまい、そのような人たちにもいい薬を投与し治療しました。管理所の医師や看護師の人たちが親身になって治療した結果、回復しました。このように感動させられることはほかにもたくさんあると思います。これらのことにより日本人戦犯も心を開くようになり、表情も和らいできて、お互いの距離が縮まってきました。

【戦犯の更生教育と「学習グループ」】
 そして、1952年当時周恩来総理は戦犯たちが自ら罪を認めて、自ら反省するような教育方法を考えてくださいと指示を出しました。管理所に収監された969人のうち31人は将校という階級で、210名は佐官、つまり大佐、中佐、少佐の3階級の人たちで、ほかの728名は尉官以下の人、つまり、階級があまり高くない人たちです。まず、尉官の中で学習グループを作りました。最初は14名の戦犯が自主的に参加し、管理所の職員は父を含め4人参加しました。      
当初はお話ししたり、資料を学習したりしていましたが、父の役割は通訳と学習を担当しました。テーマとしては戦争の責任はだれにあるのかということでした。戦犯の人たちのほとんどは上官の命令により戦争を行なった、相手を殺さなければ、自分が殺されるから自分には責任がないと言っていましたが、管理所の職員は確かに戦争を発動したのは、日本の軍上層部、政府によってですが、ただ、あなた方戦犯は軍人と軍人の間だけでなく、中国の一般の市民とか武器を持っていない人たちを殺している、中国側にはそのような証拠はありますが、自分が何をしたかは言わない、とにかく自分自身の犯罪行為については口を閉ざしていました。特に三輪敬一という人は、日本人と中国人がお互いに憎しみを持っている感情がもともとあり、中国人はずるいとかいろいろあるが、専門的には憎んでいる原因はわからないと主張しました。この人は東京帝国大学を卒業した後、民族研究をしていた人です。その人自身民族学的な知識や哲学を持っており、管理所の職員は彼のような知識は持っておらず相手にしなかったことから、彼はこの学習グループを辞めました。参加は自由でしたので、辞めても問題ありませんでした。
 このような学習会は3か月続きましたが、三輪敬一は自分が間違っていたと、またこの学習グループに戻りました。そして、戦犯たちは自分が何をしたのか告白するようになりました。最後に集計したら14人の戦犯は、一般市民を含め1,000人ぐらいの中国人を殺したことがわかりました。これは驚くべき数字ですね。この14人の戦犯が班長になり、学習グループを組織しました。この学習会によって、戦犯はほぼ2年間で自分がやった罪を認める告白をしました。もちろんその資料も作りました。1954年には学習が一段落しました。
 そのあと、中央政府から戦犯の尋問を行うために、700名の検察員を含む調査団900人余りが撫順管理所に来ました。そのとき、実は戦犯の人たちは後悔している様子で、自分がしゃべったことが罪として問われ、最後は死罪になるのではないかという危惧を持ちました。そのため、半年ぐらい皆は何も言わなくなりました。そして、個人面談が始まり、中国語では「坦白从宽,抗拒从严」と言いますが、「坦白(tǎn bái)」というのは包み隠さず自分が行なったことを自白するということですが、坦白をしたものは寛大に処せられ、罪が軽くなり、坦白をしないで抵抗するものは厳しく処分されるということを戦犯に説明しました。それで、1955年末には告白した内容と調査資料が一致した戦犯には、罪を問わないということで対処した。そして、中央の調査団が戻り、その後しばらくは学習会もなくなり、さまざまな活動が始められました。活動では太極拳グループや卓球グルーブ、サッカーグループとか、劇グループとか園芸グループなどが作られました。私はよく戦犯管理所に入ったのですが、よく覚えていることで、小さいころよくサッカーをやっていてボールが高く上がって塀の中に入ってしまい、その時に私が中に入ってボールを取りに行ったことがあります。中に入ったときは、日本人戦犯はすでに帰国していませんでしたが、国民党の戦犯たちがまだそこに収容されており、私は中に入ってびっくりしました。まるで公園みたいです。花が咲き、葡萄やリンゴ、梨の木があり、そこは収容所とは思えないほどでした。これはおそらく日本人戦犯の園芸グループが木を植えて作ったものだと思います。このような活動の中で戦犯も心がほぐれていったわけですから、少しずつ一般人に近づいていったのではないでしょうか。

【戦犯たちの現地社会見学】
 そして、1956年2月に周恩来総理の指示で、戦犯たちに中国の今の状況を見てほしいということで、社会見学が始まりました。遼寧省の瀋陽、大連、鞍山、吉林省の長春、黒龍江省ハルビン、それから武漢、南京、北京、上海など、11都市を回りました。その時は警備もついておらず、管理所の職員とバスや列車に乗ったりして、ただ服装だけは違いましたが、一般人と同じようにいろいろなところを見学し、中国の建国後の経済建設の速さを見て感動したようです。戦犯の人たちは日中戦争を通していろいろな場所のことはよくわかっていて、例えば、鞍山製鉄所はもともと日本人が作ったもので、日本は敗戦が近づくのを察知し、工場の大部分の設備を破壊し、ここを回復させようとしたら20年はかかるだろうと思っていたようですが、建国後5年でかなり生産状況が回復していました。当時のことを知っている人は驚いたようです。また、日本人戦犯はどこへ行っても自分たちが犯した罪の傷跡を見つけ出し、反省がなされたことで社会見学の意義が達成できました。この6年間、管理所の職員も罪を犯した戦犯に対し、罪人に接するような態度をとってきませんでした。これらのことを通し、日本人戦犯は普通の人間としての感性が戻ってきました。

【日本人戦犯の釈放と帰国後の活動】
 そして、1956年6月から瀋陽軍事法廷と太原軍事法廷で裁判が始まりました。6月21日、7月18日、8月21日の3回に分けて判決が下されました。3回合計して1,017名が起訴免除され、すぐに釈放されました。戦犯はこの結果について大変驚きました。中国のことわざに「お金で解決できる問題は問題ではない」というのがありますが、命はお金で解決できないこともあります。例えば、病気になったときはいくらお金を出しても、治るとは限らず、亡くなる場合があります。あと、犯罪者で死刑になった人は、いくらお金を払っても死刑になります。しかし、戦犯たちは犯罪を犯してきたが、最後は命は奪われることなく、すぐに釈放されました。判決が下されたときに戦犯の人たちは、号泣しましたが、私はこのような写真をたくさん見ました。また、45名は8年から20年の懲役を言い渡されました。その年数はシベリアに抑留された5年の年数も加算されます。中国6年、シベリア5年、通算11年、その中の一人は8年ですが、収監されずにすぐに釈放されました。44人は収監されました。
 その中に藤田茂という軍の中将で、たしか第59兵団の師団長だった人で、その人は18年の懲役刑でしたが、態度もよく自分がやったことをすべて告白し、年齢が68歳になっていることもあり、翌年の1957年に釈放されました。このように中国から帰国した人たちは中国帰国者連絡会を設立しました。初代会長は藤田茂さんでした。藤田さんは1965年9月に訪中して周恩来総理と固い握手をしました。その時の写真は中帰連の機関誌の表紙にもなりました。そして、国交正常化された1972年にも周恩来総理に招待され、中国を訪問しました。
中帰連は戦争反対や平和憲法を守る活動などを行なってきましたが、けっこう日本社会への影響力があったと思います。ただ、中国の文化大革命の時期に、中帰連は二つの派に分かれました、つまり、文革に賛成する派と反対する派に分裂したのです。一時両者の関係が悪化したことから、父は1982年から1985年にかけて、両派が統一するように日本に来ました。そして、何度も皆と話をしたあと、やっと統一大会を開くことができました。
講演会
その後、1997年に撫順戦犯管理所の職員たちの訪日の折に、中帰連設立40周年の会が開かれました。父はほぼ1年に一度来日しましたが、来るたびに中帰連の目的とか日中友好事業、再び戦争をしないことを皆とお話ししました。そのとき、NHKや他のテレビ局で父がお話しさせていただいたこともあります。父は1980年に北京の国際政治学院に勤めていましたので、中帰連の人たちが北京に来た時に交流をしましたが、1980年代には中帰連の人たちの息子さんや娘さんが北京や大連に留学した時に、父が保証人になっています。写真の男性は中帰連会員の息子さんの綿貫忠さん、女性は同じく中帰連会員金子安次さんの次女矢須子さんです。彼らが北京に来た時餃子や朝鮮料理を作ってあげましたが、とても好評でした。その時、金子安次さんは父と相談して、お宅の息子がもし日本に留学するんだったら、私が身元保証人になりますよということで、私は1987年5月に来日しました。
(次号に続く 文責:加納陸人)

A先生の新語コーナー

大白 dàbái

A先生の新語

白い防護服を身につけ、コロナ対策の第一線で働く防疫関係者を指す。もともとはディズニー映画「ベイマックス」に登場する看護ロボットに付けられた中国語のニックネームで、このロボットは白くて大きな姿をし、思いやりがあり、心優しい性格だ。防疫関係者が「大白」と呼ばれることは市民に親しまれていることを連想させる。一方、彼らは「白衛兵」だとSNSに投稿されたこともある。文化大革命時の紅衛兵になぞらえたもので、こちらはこわい印象を与える。(A)

本科・日本語科合同合宿

2023年6月1日、2日、4年ぶりに本科・日本語科の合同合宿で千葉九十九里浜に行きました。学生たちは全員初めての合宿でしたが、合宿委員のもと、グループに分かれて工夫を凝らした各種ゲームやクラス毎の発表会などで盛り上がりました。本科生と留学生が知り合え大変有意義な活動になりました。これをきっかけに、本科生と日本語科生が日頃から交流してもらえれば嬉しいです。

合宿
合宿
合宿

図書室だより

今月の新着図書から

今月は新着書から話題の本を1冊ご紹介いたします。その他の新着図書は学院図書室用掲示板をご覧下さい。

●今月の1冊
☆SNSで学ぶ推し活はかどる中国語 はちこ著 朝日出版社

テレビやネットで中国ドラマを視聴してファンになり、もっと情報を得ようと中国のSNS、動画サイトやニュースサイトを閲覧した際、単語や言い回しがわからない。辞書にも載っていないというときがあると思います。そんな時に本書が役立ちます。本書はSNSと切っても切れない「推し活」をテーマにしてカテゴリー別に分類し、実際に使われている生きた中国語をできるだけ網羅、新しくて定着率の高い語彙をメインに取り上げ、その派生表現・例文も収録、その言葉の背景も説明しています。著者のはちこさんによると、中国ではあるネット用語が流行ればあっという間に老若男女に浸透するそうで、「推し活」をしなくともこのようなネット用語を知識として知っておくことは中国語の学習にも役立ちます。著者よる中国のテレビドラマや中国の「推し活」事情を記したコラムも興味深い内容です。単語・例文の音声は専用サイトにアクセスすると聴けます。

●特集コーナーできました!

このたび図書室入ってすぐ、1番棚に特集コーナーを設けました。毎回テーマを決めそのテーマの関連書籍・DVDを展示していきます。第1回目は「食」。「食」をテーマにしたレシピ本や読み物、DVDを展示しています。特集テーマは不定期に変わります。どうぞご期待下さい。

《寄贈》(出版者略·寄贈日順)

下記の方からご著書・翻訳書のご寄贈がありました。御礼申し上げます。
◎新井一二三様(著者·翻訳者)より
《这一年吃些什么好?》 『オールド台湾食卓記 祖母、母、私の行きつけの店』
◎温又柔様(著者)より
『永遠年軽』『祝宴』
◎中国同時代小説翻訳会 立松昇一様より
『小説導熱体 第5号』
◎郭春貴様(共著者)より
『作文から学ぶ中国語 上』

-開室時間について-

※図書室は4月より開室時間が変更になりました。開室時間は、12:00~18:45 (月―金) 12:00~18:00(土)です。(別科休み期間は開室時間が変わります。)図書室は2階の一番奥にあります。日中学院に在籍する学生さんはどなたでも利用できます。