卒業式後、卒業パーティーを行いました

卒業パーティー

竹中憲一さんの逝去を悼む

日中学院校友会長 加納陸人

竹中先生
 元日中学院講師、早稲田大学名誉教授の竹中憲一さんが昨年(2022年)11月20日に逝去されました。享年76歳。これまで時折、彼の体調を案じ柏にある家を訪ねましたが、日増しに声が細くなっていくのが気がかりでした。自力で食事ができなくなり、ヘルパーさんに介添えを受けながら食事をするようになり、1週間ぐらい前から食欲もなくなってきたとお聞きし、ちょうどお見舞いに行こうと思っていた矢先に、谷部さんから訃報の知らせを受けました。愛娘の香子さんのお話によれば、おだやかな表情で最期を迎えたとのことです。
 竹中さんは長い間、病魔(パーキンソン病)と闘いながら、精力的に研究や執筆活動を続け、多くの著作を世に出してきました。着想の斬新さや豊富なアイデアを持ち、それを世に出そうという執念はすさまじいものでした。彼の大著『「満州」における教育の基礎的研究』(全6巻)は、私もゼミの院生も活用させていただきました。体調が悪化している中でも『人名辞典「満州」に渡った1万人 本編』や『近代語彙集』、『安斎庫治聞き書き 日本と中国のあいだで』などが出版されました。
 私が竹中さんと出会ったのは、1970年代初頭でしたが、初対面で話したことが今でも脳裏に残っています。高校時代に毛沢東に手紙を書いて、郵便局に行って投函しようとした際、局員に「中華人民共和国北京市毛沢東様」だけでは届かないよと言われ、「この人は中国で一番有名な人だから」と言って投函し、その返礼として中国の対外機関から『人民中国』や『人民画報』などが送られてきたといいます。1960年代末には語学共闘の機関誌『とろ火』を発行し、在日朝鮮人や入管問題などに取り組んでいました。本科5期生に途中入学しましたが、当時の日中学院の中では、常に問題提起をするいわば「火つけ役」で、「反卒業式」の呼びかけをしたこともあります。学院報の創刊号は100号から始まり、降順にしたのは号数が減ることにより抱えている問題がなくなっていくという思いがあったようですが、このアイデアを思いついたのは竹中さんです。ボイラーの資格を取り、夜は新橋のコリドーで働いており、何度か相談をしに訪ねたことがあります。
 『毎日新聞』(2000.8.16)の「ひと」欄に、竹中さんは中国帰国者に対する教育・生活ボランティアが中国行きのきっかけだったとあります。ちょうど私も1974年に中国帰国者のための日本語教室を主宰していて、ときどき竹中さんと彼らが住んでいる江東区にある「新幸荘」に行き、「満州」に渡った一世の人たちにインタビューをしました。彼のオーラルヒストリーの手法はこのころからありました。このことを知己の出版社に出版の相談をしたところ、まったく相手にされず、沈んだ気持ちで神田の古書街を歩いて帰りました。後年になっても竹中さんは「満蒙開拓団」関係の調査、資料収集をしていたので、その時の思いが続いていたようです。未だ文字化していませんが、4年前に竹中さんにこの話をしたら、よく覚えていて今からでも遅くないからやろうよ、という話になりましたが、放置してきた自身の怠慢さを気づかせてくれました。
 竹中さんとの思い出はたくさんありますが、日中学院のビラ配りやポスター貼りでは、たびたび災難が降りかかりました。よく一緒に御茶ノ水駅頭でビラ配りをしたり、高島平団地でポスティングをしました。高島平団地で竹中さんは上の階から配るからと、エレベーターに乗ったのですが、しばらくしてから地震が起き、待ち合わせの場所になかなか現れませんでした。突然エレベーターが開き、竹中さんはエレベーターに閉じ込められていたことがわかり、一言「怖かった」と…顔面蒼白。
 私のことですが、竹中さんと一緒にポスター貼りをした時のことです。夕闇迫る5時ごろでしたが、すずらん通りの電柱に貼ろうとした瞬間、後ろに警察官が二人立っていました。竹中さんはうまく難を逃れ、私はそのままK警察署に連行されました。K警察署は学生運動を取り締まることで厳しいところで、さんざんしぼられたあげく、日中学院に戻った時は夜10時半を回っていました。教室に5,6の人たちが遅くまで残っていて、私の安否を気遣っていてくれました。竹中さんの姿はありませんでしたが、私のことを心配してくれて皆に知らせたのだとわかり、何だか嬉しい気持ちになりました。
 2001年だったと思いますが、私が瀋陽で日本語教師研修会に携わっていた時に、竹中さんがわざわざ訪ねてきてくれました。ところが、彼はS教育学院構内のベンチに鞄などの荷物を置き、席を外したすきにごっそり盗まれたことがあります。お金やカード、パスポートなどが一瞬で消えてしまい、帰国するにも支障をきたし大変な思いをしたようです。
 竹中さんは1978年に北京外国語学院附属外国語学校に日本語教師として赴任し、翌年友誼賓館の自室を開放し、「日中学院日中友好文庫」(約4,800冊)を開設しました。現地の人たちが誰でも使用できるようにし、折しも日本ブームの時期ということもあり、市民から好評を博しました。しかし、文革が終結し日が浅いこの時代において開設することは簡単ではありませんでした。開設許可を得るために当該部署を訪れた時、侮蔑のことばを浴びせられ、北京空港で抗議の座り込みをしたこともあります。1979年から1981年の3年間、日中学院は中国中等教育の日本語教師の招聘や中国語音韻論の泰斗王力先生の招聘をしましたが、そのお膳立てをしてくれたのも竹中さんです。
 竹中さんの教育歴で欠かせないのが「在中国日本語研修センター」(通称「大平学校」1980年~1985年) です。5年間で600名の大学の日本語教師の研修を行なうプログラムでしたが、研修生のためにいろいろなことを企画しました。その一つが「ヒアリングマラソン」で、彼は夜遅くまで研修生に寄り添い、熱意あふれる姿がそこにありました。大平学校の修了生に出会うと、必ず口にするのが「竹中先生は本当に熱心ですばらしい先生…」ということばで、40年たった今でもとても尊敬され慕われていたことが窺えます。
 ちょうどその時期に北京の友誼賓館にある宿舎を訪ねたことがあります。ドリップ式のコーヒーを入れてくれたのですが、フィルターを切らしており、トイレットペーパーで入れてくれました。かなり抵抗がありましたが、飲んでみたらこれがとてもおいしく、当時住んでいた西安では飲めないコーヒーでしたので、今でも忘れられない味です。彼は北京を堪能し、休日に撮ったという膨大な数の写真を見せてもらいました。これらの貴重な写真がのちに『北京歴史散歩』などの出版に生かされました。
 竹中さんはいつも日中学院のことを気にかけ、将来を案じていました。その最たるものが2015年に創設された「日中学院竹中憲一教育基金」です。所蔵していた中国書画の展示会を開き、貴重な書画を売却した資金800万円を学院に寄付しました。竹中さんは何よりも未来を担う学院生のことを思い、修学支援、日中交流、教育研究の充実を強く望んでいました。具体的にどのような形になるかわかりませんが、一刻も早く彼の思いが実現することを願うばかりです。
 20年前に瀋陽でしみじみ私に語ったことがあります。「Jiana(加納)は教科書の仕事をやったらいいよ、とても意義があるから。オレは大連図書館や档案館に24回足を運び『満洲』時代の資料を集めてきた。それらをまとめて世に出したい…」と。そのことばには次世代に歴史の事実を伝えたいという思いが強く滲み出ていました。その後の彼は植民地教育史や「満州」における教育関係の著書を次々に出版しました。
 ときどき竹中さんの中国への思い、「満州」時代の研究の原点は何だったのか考えることがあります。6年前に自費出版した母親の自叙伝『香港・天津・長崎』を読むと、いろいろな疑問が氷解してきました。激動の時代に香港、天津を渡り歩き、大変苦労され竹中さんを育て上げたお母さんの存在が大きかったように思います。
 今こうして目を閉じると、生前元気だったころの竹を割ったような張りのある声が聞こえ、時には難題をたきつけられ、時には悩んでいる私を励ましてくれたことが浮かんできます。竹中さんとおつき合いして半世紀、激動の日中関係をともに経験し、あなたと語り合うことができたのは幸せでした。私にとってかけがえのない友でした。本当にありがとう。
 竹中さん、どうか安らかにお眠りください。

日中学院校友会主催日中国交正常化50周年記念講演会
『撫順の奇蹟―親子二代にわたる元戦犯との交流を通して—』①

講師:金勝光氏

校友会講演会
昨年(2022年)12月17日に金勝光さんの講演会が開催されました。1987年に本学の日本語科に留学をされ日本語を学び、大学院でAIの研究をされました。現在はIT会社の代表取締役として国際舞台で活躍し、校友会の理事もされています。父親は撫順戦犯管理所の所長を務めた方で、日本人戦犯との関わりの中で激動の中国現代史を体験された数少ない方です。この管理所の教育を通して、日本人戦犯の「認罪」と中国人職員の「憎悪」の克服をしたということで「撫順の奇蹟」といわれています。


 金勝光と申します。お忙しい中、お時間をいただきましてありがとうございます。今日は前半と後半を分けてお話ししたいと思います。前半は「撫順戦犯管理所と日本人戦犯の更生教育」を中心に、父がどのように元戦犯の人たちに教育を行なったかをお話ししたい
と思います。後半は私が来日してからのことですが、そのときはすでに元戦犯の方たちは中国帰還者連絡会(略称中帰連)という組織で活動していましたが、彼らとの二世代にわたる交流について話させていただきたいと思います。

【父と映画『ラストエンペラー』】
 まず撫順戦犯管理所はどのようなところか、父とどのような関係にあるのか、映像を見ていただくとわかりやすいと思いますので、こちらの映像をご覧ください。みなさんは映画『ラストエンペラー』をご存じだと思いますが、その中の清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀は、「満州国皇帝」になったのですが、日本の降伏後、捕虜となりソ連に抑留されました。この映画のシーンは1950年にソ連から引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されるのですが、「満州国」官吏、日本人戦犯と黒龍江省の綏芬河から撫順北駅に着いたところで、史実と若干違いますが、これは溥儀が中国側に引き渡されたシーンです。
 こちらは当時の戦犯管理所の所長で溥儀と直接お話しできた方ですが、父はその時は教育係を担当し、その後教育副課長、教育課長となり、1964年に撫順戦犯管理所の所長になりました。
 この映画の監督ベルトルッチは北京の紫禁城で撮影するときに、父と2週間ぐらいお話ししました。特に管理所における溥儀のことや釈放後の北京での生活について、父から聞きました。この『ラストエンペラー』の台本の一部は、父から聞いた話をもとに作ったと思われます。そして、この監督は映画の中に父に出ていただければ、もっと面白いのではないかと思われたようですが、父は一般人なので映画に出るのはちょっと恥ずかしい気持ちがありました。父が家に帰りその話を聞いた我々家族は、ぜひ出てほしいと言いました(笑)。実は映画の中で「愛新覚羅溥儀」とひとこと言っているシーンと溥儀を釈放し、釈放書を渡すシーンは実際の父です。溥儀は1959年釈放されました。

【父の生い立ちと撫順戦犯管理所に勤務するまで】
 ここから前半のお話をさせていただきたいと思います。「撫順戦犯管理所と日本人戦犯の更生教育」についてですが、父は撫順戦犯管理所の設立から1980年までここで仕事をしてきました。出身は現在の韓国慶尚北道(キョンサンプッド)ですが、1926年に生まれました。当時の父の家族は(私から見て)祖父と祖母は農業をやっており、田んぼを所有し水田でお米を作り、毎年豊作で家族は自給自足の生活ができました。余裕があれば、お米を売って1年間は十分に生活が維持できる、まあまあいい暮らしをしていました。ただ、当時の朝鮮半島は1910年から1945までは日本の植民地下にあり、朝鮮総督府によって当時所有していた土地は「不動産登記令」が出され、登記をしないと耕作ができないということでしたが、当時の朝鮮半島南部の人たちは、登記に抵抗する人たちが多く、祖父もその中の一人でした。その結果、登記をしなかったということで農田が強制的に没収されました。そのため、父の家族は生活できなくなり、祖父は牛を売買する仕事をするようになりました。でも、農民ですから商売はうまくいかず、何年かたつと赤字になり辛い生活が続きました。祖父は借金を返すために「満州」に向かい、兄は父を捜しに旅に出ました。そして、1933年ごろ祖母は父を含む兄弟5人を連れて、7人の家族が当時の「満州」、現在の中国東北地方に移住しました。その時は中国と朝鮮半島の国境は厳しくありませんでした。夜、荷物を持って延辺から中国に入りました。あちこち移動し現在の黒龍江省チチハル市の郊外にたどり着き、地主から水田を借りました。幸い豊作でだんだんいい生活ができるようになりました。
 父は「満州」に移った後、小学校、中学校に通いました。当時は日本の関東軍が「満州」を支配していた時代で、学校では中国語、朝鮮語、日本語の教育が行なわれました。母も小学校で日本語の教育を受けましたが、私はそのことを知らず、1980年代に入り両親が突然日本語で話したことにびっくりしました。ある日、母が大学で日本語を教えている先生に街でばったり出会ったとき、普通に日本語を話しているのに驚き、いつ日本語を勉強したのかと思いましたが、小学校から日本語教育を受けたことがわかりました。
父は高校に入る年齢になり、1942年にチチハル市の商業学校に入学できました。3年間ここで勉強しましたが、卒業する直前の1945年8月でしたが、日本軍に強制的に徴兵させられ、運送部隊に配属させられました。その直後の8月15日、日本は天皇の放送があり無条件降伏をしました。それで父たちは兵役を解かれすぐに自宅に戻りました。
 自宅に戻った父は、すぐに知り合いの紹介で母との結婚話が持ち上がりました。実は母は父と同じ小学校でしたが、特に親しい間柄ではありませんでした。ただ、母との結婚に関しては特に嫌な気持ちもなく二人は結婚しました。父は結婚後、1946年に東北民主連軍、今の人民解放軍に入隊して軍人になりました。母は黒龍江省の民族幹部学校に入り、帳簿や経理などを勉強しました。
 その後、父は軍隊から選抜され1947年12月にチチハル市公安局に配属されました。その翌年、1948年10月に瀋陽にある東北公安幹部学校に入り1年間研修を受けました。これはシベリアに抑留されている57万の中の約1,000人の戦争犯罪者を引き取るという準備段階として研修を受けたのです。この学校で世界情勢や東京裁判、政治状況などを勉強し、戦犯管理所で仕事をしていくうえで必要なことを学びました。そして、1949年10月に東北公安部政治保衛所に、1950年に撫順戦犯管理所が設立され、そこに配属されました。 (次号に続く 文責:加納陸人)

A先生の新語コーナー

社恐 shèkǒng

A先生の新語コーナー
“社交恐惧”の略。社交恐怖(症)。他人との付き合いが苦手で、コミュニケーションに不安や恐怖を感じることを指す。SNSで「社恐」と自称する若者が増えているとか。中国人は社交好きの印象があるが、社交嫌いになったのはなぜか。「一人っ子」が多く、スマートフォンが普及したことがその背景にある。不安になるのは相手に認められないことを恐れる承認欲求が強いからで、それを克服するには完璧主義を捨て、自身の内面を充実させることが必要だという。(A)

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